情報と繋がるのではなく、人と繋がるコミュニティ

 コロナウィルスの騒動でパンデミックよりも恐ろしいのが、実体があるかどうかわからない情報に踊らされるインフォデミックだということがよくわかった。ネットやSNSの情報は、常に「部分」でしかなく、「全体」を伝える内容のものはない。それらは全体から部分を切り取った部分の集まりでしかない。その「部分」的な情報について、いちいち反応することは、実はあまり重要ではないと思うのだが、反応して不安になったり、恐怖心を抱いたりする人が多いことがよくわかった。

 SNSの紙がなくなるという偽ニュースによって、街からトイレットペーパーが消えたことがあった。誰かが買い占めると本当に必要としている人が買えないので、買いだめしたくなくても買いだめせざるを得ない状況になる。偽ニュースだとわかったあとも、その連鎖はしばらく止まらなかった。不安や恐怖心が思考を鈍らせ、感性を鈍らせるのだろうか。情報はいつの間にか内容が正確でなくても、現実的にあり得そうなフィクションでも人は反応してしまうものになってしまっている。

 本来、刺激と反応の間には、空間がある。自身の反応を選択できる力はその空間に宿っているのだ。私たちの成長や自由は、その空間に宿る力を使ってどんな反応をするかにかかっている。しかし、情報という刺激と私たちの間に空間がないくらい結びついてしまい、ただ反応しているだけになってしまっている。風評被害もそうだが、人はウィルスよりも情報に殺されるのかもしれないと思うことさえある。

 情報と繋がりすぎて、それに反応し続けることで、窮屈になってしまっている人が多いように思う。どうにかできないかと考えているのだが、情報と繋がるのではなく、人と繋がるコミュニティを作れないだろうか。何が正しいとか間違っているとかという情報(そもそも正解も間違いもない。コロナの実体はいまだに何もわかっていないじゃないか)ではなく、どうすれば心地よく生きていけるのかを考えたり、誰かの悩みを解決する商品開発をしたり、社会問題を解決するアイディアをコミュニティで形にしたりしていけないだろうか。

 一人で過ごすことが大好きで人と繋がることが苦手な私がコロナの影響でコミュニティ作りを考えている。今、理想のビジョンを描いて具体的な実行計画を立てているところだが、アイディアがとまらないだけでなく、アイディア同士を結びつけたらアイディアがどんどん立体的になってくるのが面白い。

 今のところ、コミュニティは誰でも入れるが会費を支払う会員制にするつもりだ。しかし、一つ大きな問題がある。それは「どうやって人を集めるのか」だ。

 さて、どうしたものか? 人と繋がるのが苦手と思い込む反応をしている自身と向き合わないといけないようだ。しばらくそれを味わってみよう。